プラットフォームフリーの時代

近年プラットフォームという言葉をよく耳にする。狭義にはウェブ上でコミュニケーションを取る際の場のことだろうし、広く解釈すると国家とか自治体とか、学校、会社なんかもプラットフォームと言える。
ネットの世界では国内外でこの覇権争いが行われている。利用者が移り気なのか時代の流れが速いのか、盛者必衰の理のごとく主役が入れ替わっている。今のどのビッグネームも10年後に残っている保証はないだろう。こう移り変わりが激しいと、廃れたり自分の気が離れてしまう可能性のあるプラットフォームの上にコンテンツを縛り付けることに躊躇するようになる。昔よく使っていたSNSの日記も最近は見ないという人は結構いるだろう。だがどこにあろうが、コンテンツとしては自分のものであることに変わりはない。こんな経験から学んだ利用者はどのプラットフォームでも動かせる状態でコンテンツを保持する指向になってくると思う。平野敦士カール氏の「プラットフォーム戦略」にもあるようプラットフォームは使うメリットもあるが、そこに縛られるデメリットもある。今後は細胞分裂をするアメーバのように自分のコンテンツをどこでも見れて、動かせるようなサービスが増えてくるだろう。今からプラットフォーム戦争に乗り込むより(そんな体力が有る参加者も少ないが)、プラットフォームフリーのサービスを作る方が流れに乗っている感じがする。
また、リアルの個としてもいかにプラットフォームフリーに生きるかを考えなければいけない時代になってきた。このまま高コストかつ硬直性の高い官僚政治を日本政府が続けて沈んでいくのなら、住民であることを止めることも選択肢として考えなければいけなくなっている。今の政治の状態から判断すると能力と金のある個人は国のリスクまで背負い込むことはないと考えるようになる。いくら国を支えたいと考えていても、政府と一緒に共倒れする訳にいかないと合理的に考える人もでてくるだろう。(もちろん、私も事業も住民票もこの国から離れるつもりはありません。あくまでも議論としてお聞きください。)

個も事業も、どこにでも属さないというより、どこにでも属せる状態を作り出すことが大切な時代になった。そしてバーチャルの世界が国境を越えて広がり、ここまで国家権力の意味が薄れてくると、今まで考えられなかったことがリアルに考えられるようになってくる。更に世界で一番信頼されているパスポートを持っている日本人ならなおさらだ。当たり前だと思っていたことが当たり前ではない時代、プラットフォームフリー生きれる自分を作りたい。

「兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝を取るもの、これを神と謂う」孫子『兵法-虚実編』より