こどもの日

今日は昼ぐらいからキャタルに出社して、普段はできないことをしていた。夕方くらいから何人かの生徒さんが教室にやってきた。GW中なので普段より数は少ないが、その分「私は自分の意志でここにいます」という雰囲気の生徒が多かった。こうして日々子供達と接することができる仕事をしているのるが、せっかく子供の日なので、今日のブログは教育の仕事をしている立場から書かせてもらいたい。

最近週に一度「英検講習(2級用)」を子供向けに行っていて、たくさんの生徒が参加してくれている。最年少の5歳の女の子も3時間みっちり座って英英辞典をひいたり単語カードを作ったりしているし、高校生も恥ずかしがらずに大きな声を出して本を読んでいる。やっているレベルは高校生レベルのことだから、これを物理とか世界史とか他の教科に置き換えて考えてみると、これだけ年齢の幅がある授業というのは少し奇妙な感じがする。5歳の生徒から高校生まで同じ教室で対等に学んでいる姿を見ると、英語を一つの教科だと考えるのは古いなと感じる。実際子供達も、英語が学校や受験のテストで問われる教科以上のものであると直感的、体験的に認識していると思う。子供達は、自分たちが生きる時代がどのような時代であるかを実はちゃんと理解している。そしてここで生きるために必要なことはちゃんとするよという意思を持っている。
このような子供達の素直な目に日々接していると、私たちはこの社会において何が必要とされているかをしっかりと伝えていかなければいけないのだと感じる。社会に出て求められるのはどのような人材か、そしてそのために何をどのように学べばいいのかを子供達に示してあげなければいけない。人材育成のグランドデザインは残念ながら子供達の力だけでは出来ないのだ。ところが、変化のスピードが速く、私たち大人でも自分たちがどうなればいいか分からないのが現状だ。
最近読んだ、上杉鷹山の本に「学問と今日(現実)とが別の道にならないようにすべきだ」という言葉があった。鷹山は学問が現実社会に則していないようではいけないと律している。現実社会が大きく変化している今、学問のあり方も大きく変化している。高度経済成長期には正しい答えが用意されていて、複雑なプロセスを経ながらもそこに到達できる人が求められていた。教育システムもそれに倣って作られ、その頂点に受験とインセンティブシステムがあった。それは言うならば、答えの有る時代に答えを出せる人材を育成する仕組みだった。ところが現代は、答えなき答えに向かっていかなければいけない場面が非常に多い。現実社会が変われば、学問も変わる。ところが現在のように変化のスピードが速い時代においては、小手先の知識を身につけても役に立たなくなる。どのような時代になっても生きていけるような普遍的ともいえる力が何かを伝えてあげなければいけない。
これは大きく考えると3つあると思う。一つは、自分の視座を持つ力。自分のアイデンティティを確立すると言い換えてもいいかもしれない。自分は何者であるかが分からなければどこにも出発できない。自分の大切にする軸を決めなければ成長することもできない。二つ目は、継続する力。プロセスを楽しむ力と言える。一つのことを継続してこそ人は成長できるし、そのプロセスを楽しむことこそが人が幸福を感じられることではないだろうか。三つ目は、コミュニケーションを取る力。自分自身とも周りとも正しく対話を出来る人は、リーダーシップを発揮しながら問題を解決していける人間だ。英語力やITへの知識もこの中に入ってきていると思う。
子供達が夢を見れる社会を作るためには、どんな時代であっても夢を叶えられる人に育てなければいけない。夢を持ち、たくましくそれを叶えていける子供を育てることが私たちの夢だ。
買ってきた柏餅を皆で食べ、子供の夢が書かれた色紙に囲まれながらこんなことを考えていた。