「個」の国際化と英語

先日「予測をする」という記事を書いた。その中で、自分のいる業界について予測をしたらどうかと提案したわけだが、そんな私も英語と子供達の将来について投稿してみたので、ちょっとupしたい


21世紀の「国際化」は20世紀の「国際化」とは違う
アメリカの著名なジャーナリスト トーマス・フリードマンが書いた、「フラット化する世界」と言う本が昨年ベストセラーとなり話題になりました。非常に内容の濃い本なのですが、全体のテーマとしてはインターネットの普及によって世界の土壌が一つの競技場のようにならされていて、世界中が同じ価値観によって動くというグローバリゼーションの波が押し寄せているというものです。

グローバリゼーション、つまり「国際化」が叫ばれるようになってから久しく、その言葉自体が陳腐化してしまっている感がありますが、一言で国際化と言っても21世紀の国際化と前世紀の国際化はその形態が異なります。前世紀のそれは、いわば企業の国際化でした。企業という強い力が、市場、原料、労働力などを海外に求め、海外に進出していきました。これは日本に限ったことではなく、欧米各国でも企業がその推進力となり「国際化」を進めていったのです。

それに対して現在進行している「国際化」は、個人の国際化と言えるでしょう。インターネットの普及により、世界中どこにいても世界基準でビジネスを行えるようになりました。例えば、アフリカに住んでいても、ネットを通じて原稿を書いたり、ショッピングサイトを立ち上げて商売をすることで、欧米並みの所得を得ている人もいます。また、mixiやFriend LinkのようなSNSサービスやブログの普及によって、世界中の人たちと簡単に連絡を取り合ったり、友達を作れるような世界が現実に目の前に出現しているのです。

日本市場が守られてきた皮肉な理由
このような個人の国際化は日本社会にどのような影響を与えているのでしょう。戦後から90年代後半まで、日本経済は色々な形で守られながら成長してきました。特に、規制や関税などによって守られてきた国内市場は、外国人が日本でビジネスをするのは比較的難しいと言われています。ただ、外国人が日本でビジネスをするのが難しかった理由は他にもあります。商習慣の違いや文化、国民性の違いなどソフト面での問題は、実は規制や関税以上に日本市場を守ってきたとも言われています。皮肉にもその文化の独自性に加え、国民全体が諸外国に比べて英語力が低かったことも同様に外国人にとってビジネスをしにくくさせている一つの要因であったのです。


子供達はどんな世界に生きているのか
今までは、日本国民全体が英語力が低いことで国際的な競争から取り残されることは少なかったかも知れませんが、これからはそうとは言えないでしょう。それには大きな理由が二つあります。
一つは、企業の海外進出により海外に転勤になった日本人ビジネスマンの子女が、日本に帰国後、いわゆるバイリンガルとして活躍している人の数が増えており、一流企業や外資系企業への就職には彼らが圧倒的な優位に立っています。これは、就職だけに限ったことではありません。海外の企業がこれだけ日本に進出しているので、外国人とのコミュニケーションが円滑にできるバイリンガルは社会にでてからも大きなチャンスを掴み、優秀な人たちも英語が使えないことで不利な状況に置かれることがあります。実際私がアメリカの証券会社で働いていた時に採用担当をしていたことがありましたが、東大、早稲田、慶應と有名大学からの志望者ばかりだったので、書類選考ではTOEFLTOEICのスコアだけを見て合否を決めていたこともあります。また、海外にMBAなどをとりに行っていわゆるエリート街道を進むためには相当高い英語力が必要とされ、その準備を働きながらすることができるのは、若い時期に海外にいって英語で教育を受けた経験がある人が圧倒的に有利であるとも言えます。

もう一つの理由は、アジアの近隣諸国では、高い英語力を武器に競争力を強めて行っていることです。有名な話ではありますが、アメリカの家電製品などが壊れたときに電話をするコールセンターはほとんどインド人が対応しています。これは、アメリカ国内のコールセンターに大量のインド人が待機しているのではなく、電話が直接インドにつながるのです。インドはご存知の通り20世紀半ばまでイギリスの植民地だったので、英語が公用語として使われており非常に高い英語力を持つ国民です。インド独特のアクセントもアメリカ風に強制されているので、ほとんどのアメリカ人は自分がインドに電話をかけていることに気がついていないようです。また、中国においては、英語ができる人口の割合はインドほどではありませんが、人口が多いためそのような人物を探すのは大変なことではなく、資本主義が浸透し始めハングリー精神と向上心の強い若者達は英語を必死に勉強し、国際的な競争力を付けようとしています。香港の背後には中国という大きなマーケットが控え、シンガポールは日本に代わるアジアNo.1の金融市場の座を狙っています。韓国では、MBAを含めアメリカへの大学留学が日本のそれよりも熱狂的に広まっています。



こんな世界に住んでいる私達にとって、英語とは単なるテストのための一つの教科なのでしょうか?

英語はもはや試験のための一つの教科ではない
世界に出て求められているのは、会話力でも文法力でもありません。英語における表現力とコミュニケーション能力です。
英語における表現力とは身振り手振りではなく、自分の意見をロジカルに伝える能力です。そして、英語におけるコミュニケーション能力とは相手の意見に耳を傾け適切な質問をして、双方で論を構築する能力です。残念ながら現在の学校教育ではこの二つの能力を身に付けることはできませんし、英会話学校で日常会話を学んでもここに近づくことはできません。

前述のように、ブログなどの発達により誰もが表現できる時代、「ウェブ進化論」の梅田望夫さんの言葉を借りるなら「一億総表現時代」になりました。世界中の誰もが表現をする時代なら「六十五億総表現時代」かもしれません。その時に、国際言語である英語で世界に自分を表現していくことができるかどうかが、今の小中高に求められている英語力です。そのような英語力の習得を目指す場所として、また高い視野を持って世界観を磨き自分の将来像を描く場所としてキャタルの「英語寺子屋」が位置づけられればと考えています。