守破離と型。そして英語

ドラゴン桜」の作者である三田紀房氏と言えば、その緻密で計算されたストーリー展開や社会性のあるトピックで有名な漫画家だ。僕自身も漫画は相当読む人間なので、彼の作品は「甲子園に行こう」から「マネーの拳」まで拝読させてもらっている。その彼が書いた「個性を捨てろ!型にはまれ」という本を読んでみた。要約すると、「個性を捨てて、とりあえず『型』にはまってみろ。そうすればうまく行くように世の中できている。個性にこだわっているからそこから動けなくなっているんだ」というものだ。個性を大切にされる昨今の風潮において、真逆に行くとも思われかねない過激な論点ではあるが、読み終わってみると共感できる部分は多かった。ただ、何点か鵜呑みにできないぶぶんもあり、三田氏は当然理解されて入ると思うが、『型』の先に『個性』があると言うことをしっかりと書ききれていなかった部分に関しては、残念だった。

個性を捨てろ!型にはまれ!

個性を捨てろ!型にはまれ!

さて、この本の中で教育に対する考えにおいて共感できる部分があったので、少し紹介したい。今では、その弊害が強調されて方向転換を余儀なくされた「ゆとり教育」であるが、その取り組みの一環として「総合的な学習の時間」と言うものが導入された。これは、生徒が自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」をめざしたものだが、そのカリキュラムは生徒の自主性と教師の個性に依存したものである。つまり、この授業にはこのようにやりなさいという『型』がないので、趣旨をしっかりと理解して工夫をしながら授業を進められるような教師でなければ有意義な授業を行うことができない。つまりこの「総合的な学習の時間」というものには、『型』がないのである。『型』が無いということは、教師の側からしてもどのように教えていいかわからず、教師や学校によってバラバラな指導になってしまう。しっかりと教えられる教師に当たった生徒はいいが、そうでない教師に当たった生徒にしてみれば、頂上のない登山につきあわされているようなものだからたまったものではない。しかも、週に3時間もあるのである。
教育には『型』が必要なのである。きれいで、考え抜かれた『型』を習得することで基礎を身につけ、その先に初めて個性が開花する。


タイトルにも書いた「守破離」とは、まさにこの考え方をまとめたものである。「守破離」とはよく武道や古典芸能などで使われる言葉で、「守」「破」「離」の三段階で技能を身につけるという考え方だ。「守」においては、疑問を持たず清濁併せ呑み込み、師の『型』を忠実に体現出来る様に取得する。「破」はその『型』を確実に体現出来る様になった時、初めてその基本に則して応用し、自分自身のスタイルを模索する段階。「離」はその試行錯誤して見えてきた自分の『型』を、経験に基づき肉付けし若しくは削り磨き上げて、師の『型』から前進し独自の型を創る段階とされている。
例えば、空手や剣道などにおいては、その基本となる『型』を徹底的に叩き込まれる。『型』を体得した達人の前では、どんなに体力のある若者でも太刀打ちできない。また、ピカソなどはまさにこの「守破離」の体現者だ。独創的な作風で知られる彼も、その初期の段階においては非常に写実的な作品を数多く残している。そして徐々に自分の作風を確立し、最後にはその作風と主張を併せ持った「ゲルニカ」のような歴史に残る作品を作り出すことが出来るようになったのである。どんなに天才と言われている人であっても、いや天才だと言われているような個性にあふれる人だからこそ、まずは『型』を重視しそこから離れ個性を花開かせるのである。


最後に英語についてであるが、常々私が考えていることは「言語は模倣することで習得することができると」いうことだ。模倣するには『型』が必要で、日本の学校教育の現場で圧倒的にその『型』が不足していることが、学校教育だけで英語ができるようにならない原因である。『型』とは、模倣の対象となる教師もそうであるし、そのプロセスである学習法もそうである。
ここで誤解して欲しくないのは、日本の英語教育の現場で行われているまず文法を教えると言う行為は、『型』を繰り返し学ぶと言うこととは異なる。たとえて言うなら、8×5がなぜ40になるかを理解してから「ハチゴシジュウ」を暗記するのと、「ハチゴシジュウ」を暗記してからなぜ8×5が40になるかを理解するが違うということだ。日本の英語教育はナゼが先行して『型』を無視している。ナゼが理解できないと先に進めないのでは、英語学習は中途半端なところで挫折してしまう。言語には様々な例外が存在するので、ナゼに答えていたら先に勧めないのである。とにかく覚えてから、後からナゼが分かるようになればいいのだ。そもそも、我々はそうやって日本語を習得してきた。
意外に思われるかもしれないが、キャタルでは徹底的に生徒に『型』を叩き込むようなレッスンを提供している。なぜならば、キャタルで英語を教えているバイリンガル達が、そもそも知らず知らずのうちにではあるが、『型』をマスターすることで英語を習得したからである。バイリンガルバイリンガルになった勉強法を、『型』と言う呼び名ではなく「フレーズが自然に口をつくようになるまでリピートしましょう」と呼んでいる。彼らがまず教師と言う模範から『型』をマスターしたときに、自分らしい個性を発揮して夢を実現できると信じている。