言葉こそが思考である

私が会社を始めてからしばらくして、なんと経営者とは文を書くことが多い仕事なのだろうと幾度となく感じた。
今もこうして文を書いている。文を書くこと自体はそれほど苦ではないが、そのコンテンツ読み手にとって面白いものになっているだろうか、論理的整合性はあるか、一貫性はあるかなど色々と気にかけなければいけないことが多く、どうしても時間をとってしまう。言葉を仕事にしている人は世の中にたくさんいるが、その人たちの文を書くスピードっていったいどの位なのだろうと、よく考えている。ブログなどの登場によって、「1億総表現時代」と呼ばれるほど誰もが気軽に自分の意見を発表できるようになった。それ自体は歓迎されるべきものだが、「誰かによって書かれるもの」の価値と言うものが希薄化してしまうのは考えものである。かく言う私も、今こうして文を書いている。

世の中は今携帯小説やらブログ本ブームらしい。新垣結衣ちゃん主演で映画化された「恋空」は100万部も売れているらしいし、書店に行くと芸能人のブログ本が文芸本よりもいい棚を占領している。本が売れないご時勢でこれだけの本が売れていること自体は素晴らしいことだし、これらの本を書かれた人はその分野の先駆者として多大な努力をされたのだと思う。それと同時に気軽な本ばかりが売れて、文化・芸術としての文学から人々が離れてしまうことに憂慮を覚えてしまう。

私はよく小説を読むのだが、経営者としてビジネスをすることが本領であり、何で小説とかをよく読むのかを聞かれたことがある。もちろん、日本語と英語という言語こそ違え言葉を扱う仕事をしているからというのもあるが、それ以上に自分が感じられるものの幅を増やしたいと考えているからである。残念ながら人間は、言葉以外では思考をすることができない。言い換えると、私達の感情や思考を作っているものは全て言葉だということだ。例えば、美をあらわす言葉に「かわいい」という語彙しか持ち合わせていない人には、美に関する感情が単純かつ直線的になってしまう。これに対して、「美しい」「可憐な」「いじらしい」「愛くるしい」「凛とした」「いとおしい」「洗練された」「艶やかな」などなど、言葉に幅がある人は、感情や思考にも同じだけの幅がある。人間の思考は、その人のもつ語彙を大きく超えることはない。私達にとって母国語である日本語の語彙そのものが思考であり感情であるのなら、それを増やす努力をする必要があると思う。

残念ながら、今流行の携帯小説やブログ本では、その人の語彙が増えるとは考えづらい。気軽に読める本が悪いと言っているわけではないが、気軽な本しか読まないのはいいことではない。日本人にとって日本語の語彙力が思考力や論理を育み、知的活動や教養の源であるから、それが減退してしまうと言うことはつまり、国としての競争力が失われていくことになる。この問題は、本を読まない大人達にあるのではないだろうか。

幸いわが国には、平安の昔から優れた文学に恵まれている。正直古典はあまり好きではないが、少なくとも明治時代からの優れた文学の数々は今でも輝きを失っていない。日本はそもそも優れた文章を書く人を尊ぶ国だと思う。それは紙幣を見ても明らかで、樋口一葉紫式部源氏物語)、夏目漱石と文学家が紙幣に描かれているし、新渡戸稲造福沢諭吉はその残した書籍において現在の評価を得ていると言える。

ここ数回のブログで何度も本を読もうと書き続けてきたが、英語よりもビジネスよりもまずは日本語をしっかりと身につけることが大切だと痛感している。中学生に英語で作文を書くレッスンを受け持っているが、彼らは結局英語が書けないことよりも、書く内容が日本語でも見当たらないことが英語で作文を書けない理由だったりする。逆に、本をたくさん読み、書く中身がある生徒は英語力さえ伸びればすぐに作文の能力が上がり英語力もぐんぐん上がっていく。私達の思考の根幹は日本語であり、それをいかに向上させていくかは、英語力向上以上に社会の反映のために取り組まなければいけないことであると感じている。

祖国とは国語 (新潮文庫)

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