燃えよ剣

歴史は面白いもので、革命的な力が働くときは必ず傑出した人物が同時期に生きている。アメリカ独立宣言の場面の有名な絵では、ワシントン、ベンジャミン=フランクリン、トマス=ジェファソンが一緒に納められており、フランス革命期にはラファイエットミラボー、ダントン、ロベスピエールと続き最後にナポレオンが登場する。文化面においても同様で、遠くアテネの時代にはアリストファネスの「女の平和」の初演にはプラトンアリストテレスが足を運んだといわれており、ルネサンス期にはダビンチ、ミケランジェロラファイエットと言った巨人が同時期に登場し、それぞれの仕事を引き継ぎ大きな偉業を成し遂げている。このように時代に大きな変化を生み出す革命期には、申し合わせたように傑物が出現する。また、彼らの人生の引き際もまた歴史的意義を果たすと共に、人生という舞台から去っていく。

明治維新ほど日本史上において傑物を生み出した時代はなく、それぞれの人物がその意義を全うしていく。「燃えよ剣」の中で司馬遼太郎が描く土方歳三は、革命で倒される側ではあるがその力が大きかったからこそ革命側に大きな力が必要であり、逆の意味で倒幕側に大きなことを成し遂げるだけの力を与えた。日本における最後の武士であったのだろう土方が函館で命を落としたときに「武士」の時代は終焉を迎え、明治維新へと進んでいくのだ。土方の作った新撰組は旧体制の象徴であり、それが力を失っていくことで倒幕が現実を帯びていくことからも、土方は逆の意味で一つの時代を終わらせるために生まれてきたとも思えてくる。
明治維新は世界史的に見るとブルジョア革命の一つと言われており、徳川が倒れたことで日本は「戦士」の時代から「商人」の時代に突入する。市場を求めて戦争を始める帝国主義に走るのは、戦争を通じて富を蓄える「戦士」の時代の特徴ではなく、「商人」の時代の特徴だといえる。そう考えるとこの時代の混沌の中から生み出された力は、日本だけでなく世界史的に見ても大きな意義を持ち、佐幕vs倒幕の構図は「戦士」vs「商人」という世界史観でいうところのカーストの以降を促す革命であったともいえるだろう。もちろん幕末の志士達は自分達のことを新しい「商人」の時代の代表だなどとは露ほども思っていないのだが。

話を「燃えよ剣」に戻そう。土方は、いつからかその死に方を見つけようともがいた。政治的思想を持たない彼は、尊王だろうが、佐幕だろうがそんなことはどうでもよかった。彼にとっては、武士として華々しく死ぬことが華々しく生きることであったのだろう。いや、これは彼だけでなくその時代に生きた人たちの死生観がそうであったのだ。幕末という混沌の中にあっていかに生きるかを考えるよりも、いかに死ぬかを考える方が人生を意義を全うするに近かったのだろう。

現代に生きる我々は、死を現実から遠ざける傾向にある。死に方をもって生き様を示す幕末の時代に生きた人々は我々に何を伝えようとしているのだろうか。


燃えよ剣(上) (新潮文庫)

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