Benefit of Failure

ハリーポッターの作者、J.K.ローリング氏がハーバード大学の卒業式で、卒業講演をした。このことは、ブログや雑誌で取り上げられており、いささか古い話題になりつつあるが、自分が思ったことを少しだけ。

9月に入りキャタルは8期目を迎え、triciaも丸5年が過ぎようとしている。J.K.ローリングの経験した失敗に比べると自分のものは霞んでしまうが、自分も起業してから今まで多くの失敗を重ねてきた気がする。私にとってのBenefit of Failureつまり「失敗がもたらす利益」は何だったのだろうか。彼女が言うように、失敗は自分に本当に大切なものを教えてくれる。辛い時期に自分と深く対話をすることを通じて、自分に本当に大切なことがなにか、自分は何をしたいのか、自分にとって幸せとは何なのかを普段とは違った次元で考えることができる。すると自分にとって必要でないものは自然とそぎ落とされ、本質に近いものだけが残る。それを大切にすればいいのだと知ると、人生は相当シンプルになる。

まだまだ大きな失敗をするだろう。しかし彼女が言うように、失敗を恐れて及び腰になっていたら、それは始める前から失敗していることになってしまう。


以下一部引用

まず第一に、みなさんの学業における成功を祝うこの素晴らしい日に、失敗がもたらす利益についてお話したいと思います。そして(第二に)、みなさんが「現実の社会」へ羽ばたかんとするこの時に、想像力の大切さを伝えたいと思います。
これらの話題は、突拍子のない、矛盾をはらんだものと思われるかもしれませんが、どうか少しの間、私の話に耳を傾けていただければ幸いです。
21歳の頃の私の卒業式は、42歳の今になって振り返ってみると、少しほろ苦い思い出です。私が今のちょうど半分の年齢だったころ、私は自分の夢と、自分に最も近しい人が私にかける期待との間で、悩んでいました。
私は、小説家になりたいという確固たる夢を持っていました。しかし、私の両親は、そんな壮大な夢はただの楽観的で向う見ずな妄想で、そんなものでは家も買えないし、年金も払えないと言うのです。両親は貧しい家庭環境で育ち、二人とも大学を出ていませんでした。
両親は私に、実用的な学位を取って欲しいと望みました。一方私は、英文学を専攻したいと思っていました。結局、妥協として、私は、近代語学を学ぶことにしました。後から振り返って考えれば、それは誰のためにもならない妥協でした。両親の車が走り去り、角を曲がって視界から消えたとたん、私はドイツ語から逃げ出し、古典文学の廊下へと駆けていったのでした。
古典文学に専攻を変えたことを両親に言ったかどうか、私は覚えていません。もしかしたら彼らは、私の卒業式の日に初めて気付いたのかもしれません。彼らにとってギリシャ神話などは、会社の重役になってVIP専用のトイレで用を足すようなキャリアを目指すにあったっては、地球上のあらゆる学問の中で最も実用性の無いものだったことでしょう。
もちろん私は、両親の考えを責めようとは思いません。若い頃は、両親が自分の人生を間違った方向へ導くことを責める時期もあるでしょう。しかし、自分で自分の人生の舵を取れる年齢になれば、全ては自分の責任です。加えて、私に貧乏な生活をさせたくないという両親の願いを、私は批判することができません。彼らはずっと貧乏で、私自身も貧乏でしたから、貧乏はお世辞にもいいものではないと、よく知っています。貧乏は恐怖とストレスを伴います。絶望に駆られることもたびたびです。屈辱と困難の連続です。貧乏の底から自力で這い上がったことは誇りになりますが、貧乏自体を美化するのはおバカさんだけでしょう。
私がみなさんくらいの歳の頃、私は大学の勉強に熱意も沸かず、ほとんどの時間をカフェに座って小説を書いて過ごし、授業に出ることはほとんどなく、試験に合格するコツを覚えるばかりで、それが私や同級生達の成功の基準でした。
私は、みなさんが若くて才能があって良い学校を出ているからといって、今まで困難や挫折を全く経験せずに済んだと思うほど馬鹿ではありません。才能と知性をもってしても、誰も運命の気まぐれから逃れることはできません。私はみなさんが今まで、何ひとつ困難の無い、満たされた、特権的な人生を歩んできたとは思っていません。
しかし、みなさんがハーバード大学を卒業するということは、みなさんがあまり失敗に慣れていないということではないかと思います。みなさんは成功への欲望に駆られるのと同じくらいに、失敗への恐怖に追われているのかもしれません。実際、最高の学歴を手にしたみなさんが持つ失敗の概念は、一般的な人が持つ成功のイメージとかけ離れたものではないでしょう。
「失敗」の基準とは最終的には各々が決めるべきものなのですが、そうしなくとも、世の中に流布している基準を当てはめてみることはたやすいでしょう。そして、そんな通俗的な基準で測ってみれば、私の卒業後の7年間は、手ひどい失敗だったと言えると思います。結婚はすぐに破局し、片親で娘を育てなくてはいけないのに、仕事は無く、現代のイギリスにあって、ホームレスの一歩手前の極限まで貧しい生活をしていました。両親が怖れていたこと、そして私自身も怖れていたことは、現実になってしまったのです。常識的な尺度で言えば、私が知っている誰よりもひどい失敗でした。
私はここで、失敗は楽しい、などと言うつもりはありません。あの頃の私の人生は暗いもので、後にメディアが言った「おとぎ話のようなサクセス・ストーリー」が待っているとも到底思いませんでした。この暗いトンネルがどこまで続くか見当もつかず、そのトンネルの出口に見える光はいつまでたっても幻想でしかなく、それが現実になることはありませんでした。
ならば「失敗がもたらす利益」など、どこにあるのでしょう?答えはシンプルです。失敗は不必要なものを剥ぎ取ってくれるのです。私は、自分が本当の私ではない別の何かなのだと自分を偽るのを止め、持てる全てのエネルギーを、私にとって大事な唯一つの事(小説を書くこと)に注ぐようになりました。もし私が他のことで成功してしまっていたら、自分が本当にやりたかった事において成功したいという決心は起きなかったでしょう。私は自由になれたのです。なぜなら、私が最も怖れていたことは既に現実のものとなってしまい、しかし未だ私は生きていて、そして傍らには愛する娘がおり、机の上には古いタイプライターが、頭の中には壮大なアイデアがあったからです。失敗のどん底にあった岩は、私が人生をやり直すための頑丈な基礎になったのです。
恐らく皆さんは、私ほどの大きな失敗に陥ることはないでしょう。しかし、ある程度の失敗は、人生において避けることができません。何にも失敗しないためには、死んだように及び腰になって生きるしかありません。しかしそんな人生は、元から失敗です。
失敗によって私は、試験に合格したのでは得られない精神の安定を得ました。失敗は私に、私自身の事を教えてくれました。それは他の方法では学ぶことができなかった事です。私は自分に強い意志があり、私が思っていた以上に自分の心は鍛えられているのだと気付きました。そして私には、ルビーよりも価値がある友達がいることに気付きました。
過去の失敗から這い上がり、強く、賢くなったのだと知ったとき、人は自分の生きる力を信じることができます。自分自身や友達との関係が逆境によって試されて初めて、人はそれらを本当に理解することができます。そのような知恵こそが(失敗がくれた)プレゼントであり、私にとってどんな資格よりも価値があるものなのです。
もしタイムマシンかタイムターナーがあったならば、私は21歳の頃の私に、幸福な人生とは成功や達成のチェックリストではないということを教えてあげたい。資格や履歴書は人生ではないのです。残念ながら、私と同世代や年上人たちの中にも、それを混同している人が大勢います。人生とは困難で、複雑で、誰もコントロールすることはできません。それを謙虚に理解しなければ、人生の浮き沈みを生き抜くことはできないのです。

http://onomasahiro.net/amazed/84より