英語事始め

英語学習を始めるために、何から始めなければいけないかを考えている。

簡単だ。
まずは、英語ができる人生を選択すること。
英語は、受験のための一教科でも、点数が高ければ就職活動に有利なものでもない。
世界中の人たちとコミュニケーションをとるためのものだ。

英語は難しくない。今、英語ができないからと言って、自分は英語が永久にできるようにならないと信じ込む必要はない。私達が日本語を使えるということは、英語ができるようになるために十分な五感とそれを司る脳を持ち合わせているということだ。英語が使えるようになるかどうかに、才能は関係ない。どのくらい速く使えるようになるかとか、どの位きれいな発音で英語をしゃべれるようになるかとか、どの位美しいレトリックで文を書けるかとか、そういう問題になると才能は関係してくる。しかし、だれでも英語ができるようになるのかという、Yes、Noの問題には単純にYesと応えられる。但し、どんなことでもベクトルの方向を正しく十分に伸ばさなければ目的地まで到達しないように、英語の場合も正しい方法を続けなければ目標まで達しない。今までの英語学習については、方法論にばかり目が向けられて来たが、それをどのように「継続するか」という、もう一つの本質的問題には焦点が当たってこなかった。


英語ができない問題の半分以上は、「続ける」ことができないことだ。


確かに、自分の意思を伝えるためには、一定の言葉とそのルールを頭の中に入れておかなければならない。しかし、これも自分が使う言葉を限定して、何度も何度も繰り返していけば、それを理解し、記憶することはできる。続けられないことを、「英語は難しい」という問題に摩り替えて理解するのをやめれば、解決策が見えてくる。



そんな中でも、去年一年間で自分が肌で感じた一番の変化は、今までとは比にならないほど英語を話せるようになりたいと考えている人が、自分の意思を表明し始めたこと。
素晴らしいことだと思う。





ただこの英語熱の高まりを空回りさせてはいけない。今のところ、この願望に英語教育業界は応えられていない。我々英語教育産業に携わる者たちが、英語を話せるようになりたいと切に願う人々に届けなければいけないものは何か?レッスンなのか、教材なのか、英語ができるようになったという自信、体験なのか?その答えが明確であるならば、我々はそのために何をすればいいのか?2010年を私達日本社会が抱えるこの永久的コンプレックスと単純な問題に、答えを見つける年にすることができるだろうか。



私達英語業界に携わるものが大きな責任を持ってこの問題に取り組まなければならないのと同様、我々英語学習者も同様の覚悟が必要だ。(自分は、現在英語を教える英語教育業界の人間でもあり、英語を学ぶ学習者でもあると考えています。)

2010年、新しい10年が幕を明けた。10年後の2020年の世界を想像したとき、つまり今の10歳の子供達が成人したとき、この社会で英語ができない人材の割合はどのようになっているだろうか。36歳の年男が46歳になっているときに、もしその人が英語ができなかったとしたら、「もう年だから」といっていられるほど社会は我々に優しくあり続けてくれるだろうか。もしこのまま世界の変化に日本社会が目をそむけ続け、国力が著しく低下したら、我々は誰を相手にビジネスをすればいいのだろうか。そして、その時何語を使っているのだろう。もし、日本が世界のリーダーとしての地位を保ち続けら得ているとしたら、その時日本のリーダーと彼らを支える人々が英語ができないということがありうるのだろうか。


変化のスピードがなぜこれだけ速くなっているかと言う議論はさておき、この変化のスピードについていけない人は、黒船来襲の時に浜辺に大砲に似せた米俵を並べた大名のことを笑えるだろうか。質屋に刀を取りに行った武士を馬鹿にできるだろうか。

就職活動の時に尊敬する人は誰か?というお決まりの質問には、お決まりの「坂本龍馬」と応えていた。そうするとまたお決まりの「ほぉ、なんでですか?」と聞かれた。「時代をいち早く感じられる人間になりたい。時代を先読みし、一部の人間しか考え付かないようなことを実行していきたい。」そう応えていた。時代は、皆に平等にやってくる。しかし、その解釈は千差万別。果たして、我々はこの時代をどのように解釈し、どう行動すればいいのだろうか。


奇しくも今年の大河ドラマは、龍馬が主役のようだ。
龍馬伝
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/