知識社会と格差

知識社会という言葉は、よく資本主義の次の社会の形として使われる。それを資本主義と対比する言葉で言い換えて「知本主義」というと収まりがいいので使わせてもらう。資本主義から知本主義に移行するとどうなるのか。結論としては、資本主義の時に資本を持つ者と持たない者で格差が生まれたように、知本主義では知を持つ者と持たない者との間で格差が生まれる。ただ、資本主義よりも知本主義の方が格差が大きくなりやすいので(理由は後述)、個人間、企業間、国家間の格差が明確になってきている。

先ほども申し上げたが、資本主義は、資本を多く持った人が勝ち(もしくは勝ちやすい)という勝負だった。それに対して知本主義では、知識や情報を総称しての「知」を持ったものが勝ちという勝負となる。また、資本主義では、資本を使ってモノやヒトを動かして生産を生み出すから、モノやヒトの量が制約となっていた。それに対し知本主義では、知を回して生産を生み出すから、それをうまく回す仕組みがあれば1知識当りの生産量は、理論上は無限にまで広がる。

インターネットによって知が無限に広がる仕組みを得て、ソーシャルネットワークでそれを信頼の元で流す仕組みができた。このような社会が実現すると、理論だけでなく現実的に資本がなくても勝者になれる。
これと同時に、知本主義社会が進めば、資本効率が劇的に改善するのでモノやヒトは過剰となる。これにより知をもっていないヒトの価値は相対的に大きく低下し、それが格差となる。

これは、個人レベルの問題だけに留まらない。組織においても言えるし、国家にとっても同じだ。国家の場合はこの問題をいかに取り組むかで、国力に大きな差が出る。会社の中で教育を本気で最重要だと思っていなければ人が育たないのと同じで、国においても教育を本気で最重要としなければその国を支えるような人材は出てこない。強い国には必ず、壮大な人材開発計画が存在する。

だからこそ、すぐに泡と消えてしまうようなバラまき政策ではなく、国家の最重点分野として教育に国力を注ぐべきだと考える。まずはビジョンとして、国がどのような人材を育てようとしているのかを最高学府である「東大を世界一の大学にする」といった壮大な目標を掲げて取り組むベキだと思っている。最初は笑われるような目標かもしれないが、我々日本人は明治の時も、終戦の時も笑われながらコツコツ頑張ることができた。勉強する子ども達だって、小さな目標より大きな目標の方が、情熱を持って取り組むだろう。